空しさの中での出会い

 
2007年7月29日(日)の「証しの礼拝」にて
菊池洋美

−職場に配属されてきた一人の女性に、他の人とはちがう暖かさを感じた。
それが、イエス・キリストとの出会いになった。−

 私が初めて教会を訪れたのは1968年10月の末でした。
 それまでの私は無神論の家に生まれ育ち、父親の教えるとおりに「人に迷惑をかけなければいい」とか「自分さえしっかりしていればいい」とか、何の基準をない生活をしていました。
 しかし私が誤 ちをしないで生きていくには、自分を厳しく律しなければならず時々疲れを感じていました。
 そのような時には、歓楽街に行くか賭け事をしたものです。 しかし、私の
心にはいつも「これでいいのだろうか」と反問し、さっきまで騒いでいたのが嘘のように思われて「もうあんな下らないことはやめよう」と思いながらも給料が
入ると、また再び一時の歓楽をむさぼりに出かけたものでした。そして残ったものといえば、むなしさと中身の軽くなった財布だけでした。 そのような時、
一人のクリスチャン女性が私の職場に配属されてきたのでした。
 その女性は他の同年代の人とは違い、落着いた暖かい感じのする人で、何かと話をしているうちに「教会へ行ってみませんか」と誘われて、その秋の10月に私は初めて教会の門をくぐったのでした。
 やがて礼拝に継続的に出席させていただくうちに、周囲を意識した自分の姿と聖書の中の基準が非常に違っていることが(神によって)気付かされたわけです。
 いままでの私は、自分で決めたことをやり遂げられないこともありましたし、状況が変わるとすぐ方針を変えてしまうということもあったのです。つまり、
自分自身には何の基準を確立しておらず、「何が是で、何が非」がわかっていなかったのです。
 ところが、1969年の1月、新しい教会堂で新年聖会が2日3日ともたれました。特別講師のN先生が、「信仰の生涯について」力強いメッセ−ジをして下さいました。そのとき私は一つの光を見い出しました。いわゆるご利益中心の新興宗教と異なった、ほんとうのものを見た思いでした。先生の真剣な態度に真実な光を見、それはやみ夜の中にある小さな星のようなものに感じられ、この小さな光に生涯をかけて大いなる光になるまで自分の中に広げていきたいと思いながら、新年聖会後も、集会に励んで出席しました。
 ある日、「私は門です。だれでも私を通って入るなら救われます」(ヨハネ
10:9)というみことばを示されました。そのとき神が私にささやくのをききました。「お前は、教会に行っているが、イエス・キリストを、救い主として認め、心の王座にむかえているか」と。それまで、「光を見た」「ありがたい、感謝です」と言っていた私はハッとして、「これだ」と感じたのです。そして、「神を信じ、主であるキリストをとおしてはじめて信仰の生活ができるのだ」と声をきいたのです。
 
 その結果、私は罪や汚れを悔い改めて、キリストを心に受け入れました。
そしてそれまで、1日20本も吸っていたタバコもピッタリと止めることが出来、
神の力を経験し、感謝しました。
 いままでは会社人生、会社が全てといった私でした。それは結婚してからも、子どもが生まれてからも続き、ただひたすら、会社のためという気持ちで働いてきました。が、少しずつですが「神様と歩む人生へ」と変えられていきました。
 その当時は出張のため1年間も家を留守にすることがあり、半年というのも
何回かありました。しかしそういう時にも、神様が共にいて、離れていても祈りあうということも経験しました。
 また神様の愛に支えられるということは、相手のことを思うものであるとわかっていても、具体的には見えないということもあって「どうしているかな」という心配もありました。しかし、全てを神様にゆだねるより方法のないことも知らされました。
 このように、ゆだねることと神様が共にいて必ず守って下さるということを、私は家族と遠く離れることによって経験させていただきました。
 以前、会社の人から「もっと悪賢くなれ」と言われたことがありますが、
私自身、神様の前から離れていたらどうなっていただろうと思わされます。
もし悪賢くなっていたら「なんだ、あいつも俺たちと同じじゃないか」と言われていたでしょう。
 今、私は、会社では「私は教会に行っています」と旗印を掲げさせていただいておりますが、会社の人は「菊池は教会に行っているから、ああなんだ」と教会と私とを結びつけて見てくれています。
 救われる・・Be saved (by Jesus Christ)−この受身の言葉−これは「イエスさまによって救い出された」という言葉です。
 初めは何もわからなかった者が神様がわかってきて、さらに聖書の真髄がわかってきて、自分の心と意志をもって神様のほうに向けた時、そこに救いの道が
用意されています。また、すべての思いから開放されて生きていく時、周囲の人々も認めてくれるということを、今、静かに味わっております。