「受洗の証し」
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2006年4月9日 松永悠理子
私の家族は全員クリスチャンではありません。しかし、私が子供の時から神様は近くにいてくださいました。イエス様との出会いは3歳の時、カトリックの幼稚園に通い始めたときです。小学生では、友達と遊びに行く感覚で近くの教会の日曜学校に時々行っていました。そして、中学、高校は新体操を続けるために選んだ学校がプロテスタントのミッションスクールでした。ここでの6年間は毎朝、全校礼拝がありました。また週1回の聖書の授業や、年1回の修養会で学びの機会もありました。クリスマス礼拝では全校生徒で行うハレルヤコーラスがあり、毎年の楽しみでした。このような流れを通して、神様はずっと私に呼びかけてくれていたのだと思います。
しかし、私はそんな神様に気づかずにいました。あっちの道、こっちの道と迷う日々の中突然、昔行った教会を思いだしました。数年ぶりに行った教会で私は、懐かしい、やさしい気持ちになり、心がストンっと収まるような感覚を感じました。また、教会に行った後の1週間は心が軽いことに気づき、漠然と教会に行く事は自分にとっていいことだと思い始めた頃、マレーシアでの生活が決まりました。
コタキナバルの生活が始まって数ヶ月後、教会に通う機会を与えられました。また少しずつ洗礼を考え始めるようになりました。しかし、色々な違いや問題があり、私はいつまでも受け入れられずにいました。そんな時JCFを知り、加藤先生との出会いがありました。毎月、先生とお会いしお話することで、わだかまっていた私の心も徐々にすっきりとし、洗礼を受けたいという気持ちも強くなっていきました。また、たくさんの クリスチャンとの交わりを通して、愛や自分の罪について感じ考えるようになりました。そして、日本語で日本のような静かな雰囲気の中で、しかも洗礼を受けたいと思ったマレーシアの地で洗礼を受けることができるJCFでの洗礼を決意しました。また、イレギュラーの私の洗礼をJCFで認めていただいたことに感謝しています。
私が中学生の時、初めて困難を感じ初めて自ら開いた聖書にはこう書いてありました。 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:34)困難の たびに思い出してきた聖句です。今、この意味がよく分かります。
加藤先生が、洗礼はイエス様の花嫁になることだと言ってくださいました。今日、 罪に死んで生かされる私はイエス、キリストの花嫁として神様を信じ、全てをゆだね、 愛を持って歩んでいきたいと思います。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 (コリント人への手紙第二5:17)