「受洗の証し」


2007年5月27日 わが娘ひとみの誕生日に   岡 英子
  
私と教会との出会いは小学校2年生の時でした。担任の女の先生がクリスチャンで、クリスマス会に招かれて姉と教会の前までは行ったものの、時間に遅れ、賑やかな歌声に気おくれして、結局中に入れないまま、その日は帰ってしまいました。でも、その先生が好きだったこともあり、いつかあの教会の中に入ってみたいという思いは、教会やクリスチャンへの憧れと共に、ずっと持ち続けていました。

そして、中学生の時の修学旅行で、長崎の大浦天主堂を訪れ、キリシタン迫害で殉教した「二十六聖人」の話や、出身地である熊本の天草四郎の話などにより、私の中で、教会やクリスチャンに対するイメージは、どこまでも正しく立派で権力にも屈しない強いものとなっていました。そして、生意気盛りの中学生だった私は、何よりも自分が正しいと思い上がり、大人や世の中に絶望していました。汚れきった俗世間に自分の居場所はない、正しく強い人の集まりの教会にこそ私の居場所があると、小学校の頃に入れなかった教会に意気揚々と出掛け、2回程礼拝に出席したのち、小学校2年制の時の担任の先生に「洗礼を受けたい」と申し出ました。私はてっきり「あなたのような正しい良い子こそクリスチャンにふさわしい」と、先生は大喜びで賛成してくれると思っていました。でも、先生は「もっと礼拝に出席して勉強して、ご両親とも相談してから」と、とても素っ気ないものでした。単純で軽率な私は、すっかり落胆してしまい、それからほとんど教会には行かなくなりました。

何よりも自分は正しいと思いあがっていた私も、高校・大学・社会人と進むにつれ、自分の中の弱さ、他人に対する冷たさ・ずるさ・ねたみなどを、自分の中に見出せるようになってきました。自分に対する思い上がりが甚だしかった分、自分の中の汚さや罪を見つけた時の落胆も激しく、この汚い自分を抱えたまま、どうして生きて行けば良いのか、わかりませんでした。でも、神様はやさしい方で、どうやって手に入れたか忘れてしまいましたが、常に聖書は手元にあり、めったに読むことはなかったのですが、どうしたら良いかわからなくなった時に、聖書を開く機会を与えてくれていました。結婚前、夫とは千葉と福岡とに離れ離れで、なかなか連絡が取れずに不安になった時も、「思い悩むな。」(マタイ6:31)との聖書の言葉に救われたことを思い出します。

良き夫にも二人のかわいい子どもにも恵まれ、4年前から夫の転勤にともない、憧れの海外生活を、ここマレーシアで送ることが出来るようになりました。幸せなはずなのに、全てが順調なはずなのに、いろいろなことに恵まれているはずなのに、私自身の心の中は苦しくて苦しくて仕方がありませんでした。
そんな時、新聞でJCFの存在を知り、2004年5月9日にわらにもすがる思いで教会を訪ねました。それから加藤先生をはじめJCFの方々に支えていただき、6ヶ月後の11月から「火曜のバイブルスタディ」に参加し始めました。礼拝やバイブルスタディに参加させていただきながらも、「こんなに弱い私はこの場にふさわしくないのでは?」「教会は、クリスチャンは、正しく立派な人の集まりではないのか?」「こんな罪深い私がいる所ではないのでは?」と、何度も思いました。その時「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)の聖書のことばに出会い、イエス様は私を呼んでくださっているのだ、弱く汚い私を呼んで下さっているのだということがわかり、とてもうれしく安心することができました。

そして旧約聖書のノアの箱舟の所で「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8:21)と、人間が生まれながら持つ悪、つまり「原罪」についても知ることができました。また、聖書の中で繰り返される「人間の罪」、「それを悔い改める人間」、「何度も赦してくださる神」、そして「救われてゆく人間」の話は、自分の汚さに取り囲まれて身動きができなくなっていた私にとって、本当に救いでした。

私が完全無欠の人間だから神様は愛して下さるのではなく、このままの罪深い私を愛し、「ごめんなさい、赦して下さい。また同じ過ちを繰り返してしまいました。」と、自分の罪を認めることで救って下さることが、わかりました。でも、聖書のことばを素直に受けとめられるようになるまで、イエス様がこんな弱い私を愛して下さるということがわかるようになるまで、加藤先生をはじめバイブルスタディの皆さん、JCFの皆様には、たくさんお世話になりました。特に、ピーターソン由岐さんには、あらゆる場面で具体的に、ねばり強く、あきれて見捨てることなく、神様が私を愛して下さっていることを示し続けてくれました。

また、常にそばで心配しながら私を支え、洗礼を受けることを許してくれた夫と二人の子どもにも感謝しています。今日の日を無事迎えることができたのも、神様が与えて下さった皆さんのお陰です。ありがとうございます。これからも、神様と共に歩めますように、見守り続けて下さい。