OB・OGからの便り・投稿


「教会堂を貸してくださったマレーシアの長老」
綱島(三宅)郁子 (2003年5月8日記)

自分のことにかまけ過ぎていて、どれほど多くの方々の恩恵に預かっているのか気づかずに済ませてしまうことが多い。口先では「感謝します」などと言ってみても、所詮は習慣的な口癖に過ぎないこともしばしばある。振り返ってみると、私にとって、1990年代前半の約4年間のマレーシア滞在が、その最たるものだ。

1990年4月、学校を出て初めての職場がマレーシアとなった私は、ただもう無我夢中で仕事を覚え、マレーシア生活に慣れようと必死だった。出発前、関西ミッションリサーチセンターに連絡を取り、許ハンナ牧師夫人を紹介されたことがきっかけで、KLJCFの存在を知った。確か最初に参加させていただいたのは、同年6月上旬、コンドミニアムに住むO夫人宅での家庭礼拝だったように記憶している。そしていつの間にか、PJのゴスペル・ホールでの毎日曜午後4時からの日本語礼拝へお誘いをいただくようになっていた。

今思えば誠に恥ずかしい限りだが、その頃の私は、毎週交代で説教に来てくださる許牧師を含む何人かの華人牧師のご足労について、ほとんど考える余裕がなかった。むしろ、「現地の牧師先生とも交流のある私達」に誇りのような気持ちさえ持っていた。とんでもない思い上がりである。お疲れのところ、時間を割いて私達外国人のために奉仕してくださっているのに、一体こちらは、先生方の教会や神学校についてどの程度思い巡らし、貢献をしたのだろうか。日本円でお給料をいただいていたのに、リンギットで献金となると、円換算すれば恥ずかしいほどしか捧げていなかったことも思い出す。

確かにマレーシアのキリスト教会が抱える問題(特に対政府問題)については、断片的に耳にしていた。しかし、私はマレーシアの政策協力の仕事を課せられていた以上、反政府的立場をとるわけにもいかず、また、マレー人学生を相手に教えていたため、表だった意見表明もできなかった。実際、マレーシアは非常に多面的で複雑な社会である。見るもの聞くものすべてが新鮮だった上、できる限り公平な立場で客観的に理解しようとすれば、なぜ教会がそのような問題に直面せざるを得ないのか、マレーシアの歴史を総合的に知る必要があった。ただ、仕事だけで精一杯の当時、その時間も能力も、私には全く不足だった。今となっては、すべてが言い訳にしかならないのだが。

現在、PJのゴスペル・ホール前の表示には、「日本語礼拝」の文字が入っている。私がそれに気づいたのは、短期でマレーシアを再訪した1999年6月のことだった。その時になって初めて、どのような事情で日本人クリスチャンがこの教会堂を使用するようになったのか何も知らない自分に思い至った。KLJCF内部のメンバーであった時分ならば、この表示は多分宣伝の意図ではないかと軽く解釈していただろう。あわよくば、ここを通りがかる日本人駐在員とその家族が、ここで日本人が礼拝していることを知ってくださるかもしれない、と。ただ、既に外部の者となった立場で「日本語礼拝」という文字を改めて眺めてみると、マレーシア人クリスチャンにとって、一体この文字表記はどのように映っているだろうか、と考えさせられたのである。

戦時中、マラヤ(現マレーシア)のキリスト教会の大半が、日本軍によって苦難の道を歩まされたことは、多くの英語文献や教会パンフレットの説明などに明らかである。実は南洋資源獲得の目くらましに過ぎなかった大東亜共栄圏構想の下、西洋支配からアジア民衆を解放するのだという大義名分から「西洋支配の手先=キリスト教」と勘違いした日本軍が、教会を爆破したり、礼拝堂を倉庫代わりに用いたり、外国宣教師をチャンギ刑務所に収容したり、日本語使用を強要したりした。一方、開戦直前に、シンガポールの教会から戦争反対を表明するよう電報を受け取った日本の教会側は、単に「平和的解決を祈る」と声明したに過ぎなかったと、前国連難民高等弁務官の緒方貞子氏は1971年の論文で述べている。もっとも個人レベルでは、対等で温かい人間交流の皆無だったわけではないが、全体として、マレーシアの人々にこの時代が暗い記憶として語り継がれているという事実は、現代の私達も直視しなければならない重みを持っている。

昨年7月中旬、JCF牧会の仕事で再びマレーシアに滞在されることになった加藤尚宏議長に、教会堂借用の経緯について尋ねてみたところ、次のようなお返事であった。加藤議長は1990年代前半からゴスペル・ホールの前長老David Boler氏とおつき合いがあるが、氏が語られるには、ある日、KLJCFの初代メンバー数人が訪ねてきて、「あちこち行っても断られたが、会堂を貸してくれないか」と申し出たという。そこで氏は「主のためなら、どうぞ」とあっさり快諾されたとのことである。

これを知って私は驚いた。我が身に置き換えて想像してみよう。外国人が自国語礼拝のために突然やって来て教会堂を貸してくれ、と頼み込む。その外国人達は、過去によからぬ感情を我々地元人に残した国から来た。しかも、戦後はのこのこと経済活動のために大挙してきて、我々の目には随分贅沢な暮らしを享受している。しかも言葉がどうもあまり通じないこともあるようだ。忙しい日曜日の教会堂を自分達のために貸してほしいと言い、どうやら何度も断られ続けてきたらしい。このような時、私なら、果たしてそのような「厚かましい」外国人に、大切な会堂を鍵付きで貸せるだろうか。使用後はきれいに掃除をしてもらわないと困る、駐車料金くらいは払ってほしい、などと注文をつけるかもしれない。

当たり前のように通っていたゴスペル・ホールであったが、今考えてみると、すべてはマレーシアの人々のご厚意と寛大さの上に成り立っていた日本語礼拝なのである。無知とは恐ろしいものである。地元の人々の感情を察することもせず、礼拝という「いいこと」をしているのだから許されてしかるべき、などと思い込んでいたとは。

ここで、そのDavid Boler氏について、簡略ながら紹介させていただく。これは、ここ数年、マレーシアのキリスト教関連の文献資料を調べているうちに知った事項である。マレーシアのキリスト教にはCFM(Christian Federation of Malaysia)という代表組織があり、その傘下には、カトリック教会代表、主流派プロテスタント教会組織CCM(Council of Churches of Malaysia)、福音派教会組織NECF(National Evangelical Christian Fellowship)が置かれている。

NECFが公的に登録されたのは1983年5月だったが、その一年以上も前から、氏は全会一致でNECF議長に指名されていたそうである。当時、カトリック、アングリカン、メソディストなど植民地時代からの伝統的な教会は既に組織化が進んでいたが、主に戦後に開拓された福音派教会は、個別に機能し、共通項よりも教派ごとの相違を強調する傾向があったという。それに加え、1981年に始まったマハティール首相主導のイスラーム化政策の影響で、教会が国語を使用する際の語彙制限命令、礼拝場所の制約問題などの難問も重なり、大変な時期だったようだ。それにもかかわらず、氏は1994年まで議長をつとめ上げられた。

その間、インドネシア語訳聖書が内務省によって差し押さえられた事件が起こったが、氏の尽力により条件付きながら一応の解決を見たという。その他、対政府交渉、カトリックや伝統的プロテスタント教会などとの会合などの場でも、NECF代表として独自の見解を表明し、大活躍された。

現役を退かれNECF顧問である今も、例えば昨年6月発行のインタビュー資料によれば、教会内での国語使用を真剣に考えよう、と呼びかけていらっしゃるそうである。なぜなら、言語政策によって当局が強調する言語は時勢毎に異なるかもしれないが、国語の地位だけは不変だからだという。このように、困難な種々の問題に相対しながらも、常に果敢に積極的に取り組まれてきた方が、David Boler氏なのである。現在83歳とご高齢だが、KLJCFがゴスペル・ホールをお借りできたのも、堂々と日本語公示が許されたのも、この方の存在あってこそと、えにし縁の不思議さ、大切さをつくづく思う。