有難い出会い 池上美香
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クリスチャン及び求道者の集いに参加するようになって5年程経ち、その間には、数え切れない方との出会いがありました。その5年間で特に印象的なことは、根が張るように「不思議な繋がり方」をしたように見える様々な方とのキリスト教または聖書の教えが「互いの共通項」あるいは「柱」となっている「出会い」です。
勿論「一期一会」の言葉のとおり、その時限りの方も、出会い以後何度か集いを重ねてきている方もいます。そしてこれらふたつ以外のものと合わせて「有難い出会い」は、大まかに三つのグループに分かれています。
一つ目は、夫の家族、といっても従兄姉達、や夫の中学時代から現在までの朋友の多くが「クリスチャン」と言う嬉く、また本当に驚いた出会いです。
その為、私は神様を通して彼らと「同朋」になれ、夫は好むと好まざるとに関わらず、自分の家族や気のおけない朋友といる時はいつも、JCFの皆さんと一緒の時同様に、「キリスト者の輪の中」に置かれているという恵まれた状態がもたらさています。
語弊があるかもしれませんが、何事も「心」の有無は脇に置き、「形式」を満たすことに重点が置かれたり、熱を出した子供を「役立たず!」と「厄除け」に名を借りて本気で罵る慣習や、親にとって都合の良い子で居ないと拒絶されるという「怖さ」を子供心に植えつけることが、まだまだ生きているマレーシアの華僑社会を知っている私には、「ありのままの相手」を無条件で受け入れ、何事にも「心が裏にある言動」をし、「信仰に基づいた強さからくる穏やかさ」を、夫に現してくれる彼等は、とても心強く有難い存在です。また、これらの人との出会いは、「キリスト教」を共通項に思いもかけない新たな人や方向への繋がりをももたらしてくれています。
二つ目は、日本にいたらばまず会うことはないだろう年の離れた大学の先輩や同県人や、神様から使わされた場で素晴らしい奉仕をなさっている方々との出会いです。JCFKLの集いでお会いし、いろいろな示唆に飛んだお話を伺えた事や「まっすぐなお話」を交わさせていただいた事、あるいは毎週の勉強会で互いの体験や悩みを出し合い、皆で励まし合ったり善後策を練る過程で培われた「相手に対する安心感」を確かに感じられたり、持てていることは、「同国人との価値観の大きな差異」やそれから来る「怖さ」を抱えていた私には、とても大きな「救い」で、文字通り「一筋の光」を見る思いがしています。
三つ目は、マレーシアの外に住む、今では時折の便りの遣り取りだけになっている友人とマレーシアの互助会を通してお会いした方々との出会いです。前者の内のでも、穏やかで逞しい面々は十中八九「クリスチャン」で、後者もご本人は気付いていらっしゃらないしょうが、聖書が説く「忍耐によって培われたる品性と強さ」を伸びた背筋と併せ持ってらっしゃる方が多く、便りをもらう度に、お会いして言葉を交わす度に、これぞれの言葉の端々から「元気」を受け取っています。
大人子供の如何を問わず、「同じて和せず」と「同じない者は仲間外れ」が罷り通り、人と人の繋がりがオブラートのようになってきたと言われている昨今に、
不必要な計算をせずに、疑心暗鬼にならずに、考え思っていることを言葉にでき、
それに対して誠実に対してくれる仲間や同朋がいると信じられることは、
どんな贅沢な物質的、あるいは社会的な「モノ」を与えられたり手に入れるよりもはるかに心強く、有難く、貴重な賜物か。
ここに書いた出会いを俯瞰図のように眺めた時の「繋がり」もまた、実に素晴らしく、その「御技の妙」にはただただ感心しています。
甲州方言に「よっちゃばる」というのがあり、「互いに寄り合って和す」の意味です。先に書いた方々との交わりはその「寄っちゃばりの心」に溢れ、「友人の慰めは魂を力づける」(箴言27:9)のままに、確かに「近くに居る隣人は遠くの兄弟にまさる」(同27:10)と書かれているとおりだと、改めて感心しているこの頃です。
「偶然」という言葉で片付けてしまうには、あまりに重なり過ぎ、これらの「出会い」という「恵み」の中に「見えない御手」の存在と「御心」を思わずにいられず、同時に感謝の念で心がいっぱいになります。
親や社会から受けた様々な教育同様、感謝してし足りるものでも、「お返し」のできるものでもありませんから、ただ「有難い恵み」として受け取るだけではありますが、その「ほのぼのさ」を少しでも他の人々と分かち合いたいと思っています。
これからどんな出会いがもたらされるのか、また今まで出会った方々との繋がりがどうされていくのかを楽しみにしながら、JCFKLの一員、あるいはクリスチャンとして、一歩一歩、一日一日を歩んでいこうとの思いを新たにされています。
もたらされた「出会いの恵み」に感謝の祈りを捧げつつ。。。