もしもピアノが弾けたなら・・ 諸江修




KLJCFの1000回目の礼拝に、奏楽者としてピアノを弾く名誉が与えられたことを心から神様に感謝します。

1980年代前半にヒットした、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」という歌をご存知の方も多いと思います。「ピアノが弾けたらいいなあ。」と思う心が甘いメロディーで表現された素敵な曲です。この曲がヒットした頃、私もこの曲を聞いて、「もしもピアノが弾けたらいいなあ、ピアノが欲しいなあ。」と切ない気持ちを抱いた大学生でした。

私の実家は日本人形の製造販売をしていました。伝統的な日本文化が生活の隅々まで行き渡っているような家で、特に音楽的な環境は、日本にあっても特殊と言えるくらい超伝統的でした。母は花柳流の師範、祖母が長唄の師匠、伯母2人が小唄の師匠でした。特に母は暇さえあれば、日本舞踊の音楽のテープを流しっぱなしという状況で、邦楽の調べが、嫌がおうにも耳に入ってくる家庭環境でした。私たち3人兄弟の中では、一番下の弟が家族の期待を一身に背負い、小学校に上がる前から踊りを習い、子役としてはちょっとした有名人になっていました。

私はというと、邦楽が嫌いなわけではありませんが、特別な興味もなく、親に薦められても、踊りも三味線も習う気もせず、音楽とは無縁な子ども時代を送っていました。ところが小学4年生になった時、自意識が芽生えてきたのか、学校の学芸会の合奏でいつもその他大勢として笛を吹くだけの自分に耐えられなくなり、何か楽器を担当させて欲しいと思うようになりました。木琴とか鉄琴とか太鼓とかチョイスはたくさんありましたが、できるなら目立つピアノを弾きたい、ピアノがだめならオルガンでもいいから、やってみたいと、なぜか思ってしまったのです。そして親に「ピアノを習わせてくれ。」と話をすると、即座に「だめ!」「だいたい、ピアノなんか男の子がやるものではない。」「ピアノのような高いものは買えない。」とのこと。そう言われると、親に逆らえない性格だった私はあっさりピアノを習わせてもらうことは断念しました。

親を説得するのを諦めたものの、学芸会の合奏でその他大勢になりたくないという思いは断ちがたく、それなら独学しようと心に決めました。当時、私の小学校の各教室には、音楽の授業用の足踏みのオルガンが1台ずつ置いてありました。それを休み時間にピアノを習っている女の子達が弾いて遊んでいました。私は「あのオルガンで練習してやれ。」と思い、朝学校に30分早く登校して、合奏でやる曲のオルガンの譜を練習し始めました。もちろん最初はよく分からないので、ピアノを習っている女の子に教わり、少しずつ練習しました。そしてなんと3ヶ月ほど毎日休まず練習しますと、合奏のオルガンの部分がちゃんと両手で弾けるようになったのです。もちろん羞恥心などあまりない小学4年生の私は、オルガンが弾けるようになったことを先生に話し、合奏でオルガンをやりたいとお願いし、その年の学芸会の合奏はオルガンを担当させてもらいました。5年生の時も6年生の時もオルガンを担当しました。もちろん毎朝、学校で必死に練習しました。

中学校に入ると運動部での活動や生徒会活動が忙しくなり、ピアノとは縁のない毎日を送りしました。高校は高崎高校に入学しました。高校に入ったら音楽関係の部に入りたいと思っていたので、入学前に1年先輩で合唱部に入っている人の家に高校や部活動の話を聞きくために遊びに行きました。いろいろな話をしているうちに、その先輩から「君は話がうまいし、論理的な思考をするから、合唱部より弁論部の方が向いているよ。僕は両方を掛け持ちしているけど、君は絶対弁論部だ。」とおだてられ、高校入学と同時に弁論部に入部、そのままずるずると3年間弁論部に在籍、2年生の6月から3年生の9月までは生徒会長までやってしまい、ステージで歌を歌うのはなく、ステージで演説する高校時代を送ってしまいました。もちろんピアノとは全く縁のない高校時代でした。

大学に入学した時に、今度こそ、誰に何を言われても、絶対に音楽をやりたいとの思いを抱き、同志社グリークラブに入部しました。同志社グリークラブは男声合唱団ですので、毎日歌の練習に明け暮れました。当時はパソコンのMIDIなどがない時代ですので、合唱の曲の音取りはピアニカを吹いて鍵盤を押して行います。ピアニカを自分で吹いている時は息を吹き込むために口がふさがっているので、歌を歌うことができません。音を取るにはピアノを弾きながらそれに合わせて歌うのが最も簡単な方法です。ですからピアノがあればどんなに音取りが楽だろうかと思いました。この時、本当にピアノが欲しいという切ない思いに駆られました。ちょうど、西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」のヒットしていた頃でした。もちろんピアノを持っていて、ピアノがうまく弾けて、ピアノ伴奏の付いた合唱曲の伴奏でもできたら、どんなにいいだろうとも思いました。もちろんピアノも持っていないし、それよりなりよりピアノを置くスペースもない4畳半の下宿に住んでいた、ピアノを弾けない私でした。

25歳の時、第2の学生時代を送るために、シンガポールに留学しました。そして寮生活を始めました。なんとその学生寮には学生用のピアノ練習室が4部屋もあり、寮生は自由にいつでも好きなだけピアノを練習することができるという環境でした。私はその時、思いました。「これは神様のくれたチャンスだ!ピアノを練習しよう。」と。シンガポールの寮で、夕食の後、日が暮れるまで、よくピアノの練習をしました。幸いなことに、寮では2ヶ月に1度くらいの割合でパーティが開かれ、パーティでは歌や踊りの出し物を出さないといけません。私は寮でただ1人の日本人でしたので、日本代表としていつも何かをさせられることになっていました。そこで目標を決めて、日本の曲をピアノで弾き語りで歌うことにしました。人前で発表するとピアノは飛躍的に上達するという経験をしたのはその時です。また日本人の人の結婚式などでも日本語の結婚関係の歌を弾き語りしたりしました。留学3年目の冬休みに日本に同級生と4人で伝道旅行に行った際には、各地の教会や学校で歌を歌い、ピアノのある会場では私がピアノ伴奏をしたりしました。

シンガポール留学の頃からピアノを弾くことが生活の一部になり、また時々発表するチャンスにも恵まれましたが、ピアノを自分で買って、家で弾くようになったのは29歳の時にペナンに引っ越してからです。中国製のアップライトのピアノを買いました。初めての自分のピアノがうれしくてうれしくて、毎日何時間も弾いたものでした。

34歳の時にKLに移ってきて、最初の1年間は会社を辞めて独立したばかりで、ピアノどころではなく、テレビや冷蔵庫もない生活をしました。1年たって生活がやや安定してきて、家電製品を買いそろえ始めましたが、テレビを買うより前に中古のアップライトのピアノを買いました。しかしピアノを買っても仕事が忙しくて、実はピアノを弾くという時間も心の余裕もありませんでした。その後、スバン・ジャヤに引越しをし、声楽の個人教授についたり、KLグリークラブを始めたりして音楽が私の生活の中に入ってくるとまたピアノと向かい合う生活が始まりました。そして思い切って7年前、幼い頃からの夢だったグランドピアノを買いました。ところが、なぜか夢が現実になった日、つまりグランドピアノが我が家に届いた日を境にピアノへの熱い思いは急激に冷めてしまい、グランドピアノはいつしかリビングルームの装飾品、というか雑多なものを乱雑に置いてしまう大きな台と化してしまったのです。

ここまで読んでいただいた方には恐縮ですが、実はここまでが私の証しの前座の部分です。ここからがやっと証しの本論に入ります。長くなってすみません。

2年ほど前から、KLJCFでは礼拝で奏楽を担当できる人が相次いで帰国し、奏楽者が福山京子姉1人という状況になってしまいました。福山姉に年中無休で奏楽をしてもらうわけにもいかず、私が月に1度奏楽を担当することになりました。最初は大変でした。もともとピアノを習ったことのない私ですので、そう簡単にはすべての曲をすいすいと弾くことはできません。2週間前くらいから曲を決めてもらい、毎朝出勤前に1時間ずつ練習しました。KLJCFは、礼拝前の賛美で3曲、礼拝中は5曲(聖餐式のある第1日曜日は6曲)讃美歌または聖歌を歌います。それに前奏を入れると9曲を弾かねばならず、それは大変でした。

奏楽を引き受け始めた頃、私が直面した問題点は、それぞれの曲で調が違うことでした。最初の曲がへ長調(♭1つ)で、次がイ長調(♯3つ)で、その次が変ロ長調(♭2つ)とかの場合、頭の切り替えがでできず、間違った場所の黒鍵を弾いてしまったりしました。また会衆賛美の場合、皆の歌うスピードに合わせなければならないのですが、ピアノを弾くの一生懸命になりすぎ、テンポが会衆とずれてしまうこともありました。もちろんミスタッチをして、かなり致命傷な状況になってしまうこともしばしばあり、奏楽をするたびに、もう嫌だ、辞めさせてもらおうと思いました。

奏楽がうまくできずに、打ちひしがれて家に戻ってきて、もう絶対にやりたいくないと思っていると、いつも決まって、次の奏楽の当番までの間に何かのきっかけがあって、子どもの頃から憧れていた、弾きたいと思っていたピアノを皆の前で弾かせてもらい、それも礼拝の奏楽という神様を賛美する重要な役割を与えられているのだから、諦めてはいけないという気持ちにさせられました。そんな経験を毎月毎月重ねていたある日、ヨエル書の4:10 「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え。」という聖句に出会い、ハッとさせられました。

「弱い者も、私は勇士だと言え。」とは、ピアノを習ったことのない私、つまり弱い者も、神様から大切な役割を与えられているのだから、「勇士だ」と自分自身を呼び、実は他の人に代わることができないKLJCFの立派な教会奏楽者であると自覚せよと言われているようでした。

よく考えてみると、私が奏楽を辞めたいと思う気持ちは、下手なピアノを弾いて恥をかきたくないというメンツと、練習をするのが面倒くさいという怠慢な心が原因でした。そのメンツと怠慢な心を神様はヨエル書のみ言葉を持って砕いてくださいました。

このみ言葉に出会った頃から、礼拝の奏楽にもだんだんと慣れてきて、練習も2、3回すれば弾けるようになり、曲によっては会衆のスピードに合わせるというより、拍の頭の音を強く弾いたり、導入の部分を強調したりすることで、会衆賛美をリードできるようになりました。今では奏楽を辞めたいと思わないだけでなく、「もしもピアノが弾けたなら」という子どもの頃からの夢と憧れの実現することを励ましてくださった神様に心から感謝できるようになりました。

2007年1月7日、KLJCFの1000回記念の礼拝で10曲の讃美歌やゴスペルソングを弾かせてもらいます。その中の1曲が「昔主イエスの蒔きたまし、いとも小さき命の種、芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る木とはなりぬ。」(讃美歌234A番)です。まさにKLJCFというイエスの蒔いた小さな種が1000回の礼拝を数えるまでに成長したことに驚きと感動、そして感謝の思いをいだきます。そんな感動と驚きの讃美歌を奏楽者としてピアノを弾かせてもらうことに格別な思いを感じます。

神様に「私が勇士と言え。」と励まされた弱い奏楽者の私が、祈りを込めて1000回目の礼拝でピアノを弾きます。そしてこれからKLJCFに出席させていただく限り、ずっと奏楽者としてピアノを弾いていきたいと願っています。