受洗のあかし 下橋美和
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「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)と聞いて、ぼろぼろと涙がこぼれて止まらないという経験をしたのは、20代のなかばでした。
日本語教師になりたいと思い、仕事を求めて韓国に渡り、無我夢中で3年ほどの時間を過ごし、ようやく韓国に慣れたころ、今度は日本への帰国が決まったというときでした。環境の変化にとまどって、どうすればいいのかわからなくなっていたときに、このことばに涙を流したのが、キリスト教との出会いだったのではないかなと思っています。
このような出会いはあったのですが、キリスト教に限らず、宗教や占いなど非合理的なことには抵抗を感じていたわたしは、なかなか聖書や教会に近づいてはいけませんでした。
イエス・キリストが、水の上を歩いたり、病気を一瞬で治してしまうという話には、どうも抵抗を感じると、当時つきあっていた韓国人であるいまの主人に話したときのことでした。主人は、こんなことを言いました。
おばあさんのおばあさんのそのまたおばあさんのラブレターの表現が古いからといって、そのおばあさんの気持ちがうそだったとは決して言えないと思う、と言うのです。
こんなことを言ったことを、主人が覚えているかどうかは知りませんが、わたしにとっては、その後もずっと頭に残っていたことばです。いまも聖書を読むたびに、このことばが伝えたい気持ちはどんなものだろうと考えます。
20代なかばで、聖句に感動する機会をあたえられながら、10年も回り道をしてしまいました。しかしこれも、神さまがにぶいわたしには必要として、あたえてくださった時間なのかもしれません。この10年のあいだに、 自分がクリスチャンになってもいいのかと疑い、そして、そのたびに、けれどもやはりと思わせられることが何度かありました。
たとえば、主人はキリスト教神学を勉強しているのですが、主人とつきあうなかで、たまたまつきあっている相手が神学生だから、なんとなく教会に行ったり、聖書を読んだりしているのではないかと思うこともありました。
たがいにちがう国にいながら、休暇ごとに会うようなおつきあいでしたので、すれちがいも多く、いちどはもう連絡しないでおきましょうと、言って連絡を絶ったこともありました。そのとき、自分はこれで教会や聖書から遠ざかるのかなと思いましたが、自分でも不思議なことにそうはなりませんでした。いま、わたしが神学生と結婚したという理由だけで洗礼を受けるのではないと、自分自身に対して答えられるのは、あのしばらく主人と会わない時間を、神さまが作ってくださったからだと感謝しています。
その数年後、神学生である主人とソウルの教会で結婚しましたが、結婚式は、式を挙げてくださった先生だけでなく、主人の友人もほとんど牧師先生、親戚にも牧師先生がいるというような、牧師さんだらけの結婚式でした。当時、わたしはブラジル、主人はフランスにいたため、準備もろくにできず、平服での花束もない挙式でしたが、神さまが着るものや飾るものより、多くのものを贈ってくださった結婚式だったと感じています。
今後も、神さまが、そのときどきのわたしたちにもっとも必要なものを授けてくださると信じて、いい生き方ができるよう、いつかはいいクリスチャンになれればと祈っています。
この結婚の前後はブラジルに赴任しており、そのときにも生活設営の過程で教会をさがして、離任まで毎週通いましたが、昨年、マレーシアに来たときにも、そのように教会をさがしました。韓国人である主人は、韓国系の教会をいくつか回りましたが、どうもここというところに出会えないでいました。その後、日本語で礼拝ができる教会があると職場の関係の方から聞いて、主人とふたりで礼拝におじゃまし、みなさんが心穏やかに礼拝していらっしゃる雰囲気にひかれ、その後もおじゃまするようになりました。
その後、子どもを授かり、おなかに子どもがいるあいだは、残業や出張もあり、たまには週末の出勤もある仕事をこなすのにせいいっぱいで、礼拝にも来られないことも多かったです。また、出産後は、その仕事と子育てをいいわけに、なかなか教会に来られないことも多くあります。
つかれきった日には、食前の祈りのことばさえ、出てこない日もありました。そんなとき、主人は、祈りにもならない祈りのことばまで聴いてくださるのが神さまだと言います。
神さまが与えてくださったイエスさまの復活によって確かなものとされた永遠のいのち、すなわち神さまのめぐみにあふれた生き方を、ありがたく受け入れ、また、そのようなめぐみを十字架の事件を通してまで、わたしたち、わたしに伝えてくださったイエスさまに感謝したいと思います。
ローマの信徒への手紙につぎのようなみことばがあります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章38〜39節)
ここに書いたことすべて、そして書かなかったこともすべて、見ていてくださり、よりよい生き方を導いてくださる神さま、そしてその神さまのことを指ししめしてくださったイエスさまに、心から感謝します。
また、わたしたちをあたたかく迎えてくださったKLJCFのみなさま、加藤先生にお礼を申しあげて、終わらせていただきます。ありがとうございました。