KLJCF礼拝1000回記念に寄せて−在り続けることの意義− 綱島(三宅) 郁子
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2005年8月12日 アメリカ・コネティカット州 のハートフォード神学校前で
2007年最初の礼拝が、奇しくもKLJCF礼拝1000回目に合致するとのメール週報配信に触れ、遠く日本からも一言お祝い申し上げます。記念すべきこの時期に、1000回に至る礼拝の道のりの一端に連ならせていただいた者として、何か思いを綴るようにとの仰せを加藤尚宏牧師から受け、ささやかながらOGの思い出話を添えることにいたしました。
ピアノで奏楽を担当させていただいたこと、よく前奏の曲目を尋ねられてうれしかったこと、エディー・ホー先生の通訳を務めさせていただいたこと、クリスマス礼拝の聖劇と朗読、フィリップ・コー先生ご夫妻のお話、故横内澄江先生、故デビッド・チャン先生のお説教、そして食事会など、すべてが懐かしい思い出です。
今は、週報を拝見しても、お名前のみの知り合いが増えてしまい、時の確実な流れを覚えます。ただ、毎年送られてくる写真付のKLJCFのクリスマスカードを拝見していつも感じるのは、(皆様、お若い表情だなあ)ということです。マレーシアの穏やかさ、温かさ、暮らしやすさのお陰もあるのでしょう。この私もかつてはその場で、同じ空気を吸い、同じ水を飲んで過ごす恵みを与えられていたのだと思うと、やはり感慨深いものがあります。
経済発展著しい現在のマレーシアは、日本人にとっても身近で親しみやすい国の一つとなりました。観光旅行で訪れた人々も一様に「マレーシアっていい所ですね」と私におっしゃってくださいます。
このことは、1987年3月に、イギリス、オランダ、旧西ドイツでの一ヶ月のホームステイを終えて、マレーシア航空で日本に帰国する途中、初めてクアラルンプールに立ち寄った者にとっては、いささか驚きですらあります。
当時の写真を見ますと、どこで撮影したのか定かではありませんが、広々とした青い空が一面に広がる中、若々しい(?) 私が、いかにも場違いな暑苦しい冬物姿で写っています。背景にはほとんど何もないのです。それほど当時のクアラルンプールは、首都とは名ばかりで、少しの高層ビルと近代的な道路が清潔に伸びているだけの、車の通りも少ない、静かで田舎っぽい小都市風情でした。母校の英国人教師の引導でパンパシフィック・ホテルに宿泊したのですが、言葉の充分通じない私達をねらって、マレー人ボーイが部屋までチップをせびりにきたことも忘れ難い思い出です。
その後大学院を修了した私は、国際交流基金の派遣により1990年から93年までの三年間を、そして1994年から95年までの一年間を、マレーシアで暮らすことになりました。派遣が決定した直後、都市銀行勤務だった父が猛反対したことを、今でもはっきりと思い出します。「なに、マレーシア?やめてくれないか、な。ヨーロッパやアメリカなら行ってもいい。頼む。東南アジアなんか、未婚の娘を一人で出すところじゃない。職場の人に顔向けできないし、妹や弟の縁談にも差し障りがある。今からでも断ってくれないか?」
確かに、当時の日本の新聞紙上では、東南アジアといえば、経済進出の場、あるいは一部の男性が手軽に遊ぶ所というイメージが強かったように記憶しています。大学で政府プログラムの日本語教育に携わるのだから大丈夫といくら言っても、未知なる国へ飛翔しようとする二十代半ばの娘に対する父の心配は、それ自体、もっともなことでした。それで私も、それほど懸念する父を裏切ることだけは絶対にしたくない、という思いを強めつつ、旅立つ準備をしたのでした。
今振り返れば、「親を安心させるためのシェルター」の役割を担ってくださったのがKLJCFだったと断言できます。たとえどんなに小さな集いであっても、聖書を朗読し、讃美歌を唱和し、説教を聴き、母語である日本語で共に祈る人々の群れに加わる毎週日曜の習慣は、慣れない異国での勤務に疲れた一週間を癒す爽やかな憩いの一時でした。万が一何か発生したとしても、ここに集う人々にSOSを出せば、きっと助けてくださるだろう、という安心感がありました。
また、学校という狭い空間しか知らなかった者にとって、各種企業派遣のご家族や日本人学校勤務の先生方とも知り合うことで、格段に視野が広がりました。同業者には話せないようなことを打ち明けられるようになったり、高価な衛星版の日本語新聞や雑誌がどっさり無料で読めるようになったりしたのも、KLJCFならばこそでした。悩み多き難しい年頃のシングル女性を、温かく包み込むように受け入れ、祈りによって支えてくださり、特に病気も怪我も事故もなく、無事に四年間を過ごせたことは、本当に感謝です。
最近はどうか知りませんが、私のマレーシア滞在時には、純情な若い日本女性が個人的なトラブルに巻き込まれる、という話を時々耳にしました。海外に出た気の緩みでしょうか、または母国とは違った経験をしてみたいという冒険心からでしょうか、あるいは寂しさやナイーブさからでしょうか、心の痛む話もなくはありませんでした。そんな時、押しつけるわけではないけれど、彼女達がKLJCFの存在を知っていたならば、もしかしたら少しは何らかのお役に立つこともあったかもしれない、と思ったことが何度かありました。
実際、東京のキリスト教系大学を卒業した方から、ある日本女性に関して「三宅さん(注:私の旧姓)がクリスチャンだと聞いたので、相談するのだけれど」という電話を受けたこともあります。結局、その件では当事者が先走っていて、何もできませんでした。しかし少なくとも、そういう電話が一度でもあった以上は、いざという時、人々の信頼に足るだけの存在であり続けなければならないのだという責務を感じると同時に、時が良くても悪くても、「あなたはマレーシアで一人じゃない。こういう場所もあるんですよ」と、存在そのものを何らかの形で示し続けていくことの大切さを痛感しました。
何だか、礼拝1000回記念とはややかけ離れた内容になってしまいました。気持ちが伝わればよいのですが…。 (2007年1月10日記)